ケセラセラフィロソフィー

ギリ社会人してる不適合者のつぶやきです

来年の手帳

今年も手帳を買う季節。社会人になって以来、部署も変わらないせいか、手帳として必要な機能もずっと変わらず毎年同じ手帳を使ってる。

ミドリのプロフェッショナルダイアリーというものだ。

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それでも特段飽きもせず使い続けられる理由はなんだろうと考えてみるとこんなところ。

①書きやすい(MD用紙という専用の紙なんだそうだ)

 

②月曜始めの月間スケジュールで、1日あたり3〜4行かける

   1日の予定って大雑把には3つくらいしか要らないことに気づいた

   & 細かいスケジューリングはgoogleカレンダーで管理するから問題なし。

 

③各月ごとのメモページが使える

   左半分は日々の体重、体脂肪、食事なんかの記録ページに使ってる。

   右側はメモ。時々、1行日記を書いたりしてる。そんなに長々書く必要ない

 

④サイズが良い

   A5スリムサイズというのがポイント高い。個人的にはA5サイズですら大きすぎ。

   でもA6ぐらいになると小さくて書きにくい。

   あと、B5、B6は一緒に鞄に入れてる本とかと規格が違うのでキモチワルイ。

 

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 リンク貼り付けようとアマゾンで検索してみたら思っ切り女性ターゲットの商品説明だったのはご愛嬌。

自己紹介がわりに

はてなブログを始めて、はてなのサイト本体を訪れるようになったのだけれど

なかなか興味深い記事をみつけた。

borges.blog118.fc2.com

 

自分がどうして入社3年目にして60万もする絵を買ったか、休みになると美術館に行ってしまうのか、そしてどうしてそれが”浮く”のかをよく説明してくれている笑

それはひとえに自分が

日本の社会では「排除されないため」にも、大衆文化(カラオケ、宴会など)的な振る舞いが必要になってくる場合がある。文化的エリートは、組織に同調して「自らの文化的優位を隠す」

ということをしないから、だろう。

 

私について時々「日本人離れしていて外人ぽい、フランス人とか」と言う人があるのだが、その人にとって私のイメージはブルデューがフランス社会で調査した「文化的排他性仮説」の特徴と親和的で、どうも日本社会から提起された「文化的寛容性仮説」の示す特徴から遠いと感じたからなのかもしれない。

 

私はもともと社会学という学問はほとんど知らないのだけれど、大学院時代にTwitterのつながりからインカレの社会学ゼミに参加していた。

自己紹介といいながらあまりかけていないけれど、続きはまたの機会に。

入ってくるお金、出て行くお金

当たり前なんだけど
会社勤めしたりアルバイトしててお金が入ってくるのは仕事ごとに月に一回。
出て行くのは毎日。
だから月次で収支をつけて0以上なら生きていける。
 
金融の仕事をしていて一番ためになっているのはこんな当たり前の事実だったりする。
 
もし、(というか今生き延びているのならほぼ確実に)
月次レベルで収支が0以上なら手元にはお金があるはず。
そのお金をどうする?っていうのがそもそもの資産運用。
 

ワナビーの何が悪いのか

 

自分にはしたいことがたくさんある。

なりたいものもたくさんある。
28にもなって週末にはサッカーやフットサルに明け暮れる。
「自分の」サッカーチームをもちたい。
「自分の」オーケストラ、楽団、アカデミーをもちたい。
 
どっちかというと所有したいというよりはそういう場所にいる選手や音楽家、芸術家、学者と常に関わっていたい。
 
そしてもう一つ。
やっぱり表現者でありたい。
絵を描きたい。
本を描きたい。童話もミステリーもノンフィクションも。
楽器を弾きたい。ピアノもヴァイオリンもドラムも。
走れなくなるまでプレーしたい。
 
昨日ジムで見かけた人はブラインドサッカーではないけど弱視のサッカー選手だった。
それを見たら死ぬまでサッカーしててもいいじゃん、なんて思ったよ。
一緒にプレーする仲間も少ないかもしれないけど必ずいると確信した。
 
声をあげ、アピールすることが大事なんだ。
そして始めてしまえ。ずっと、全部やってれば自然と仲間は出来てくる。
自分への励まし

「空気」について

暗黙知が多いほどハイコンテキストになるので外部からは入りにくい集団になる。

つまりは内部の人間が集団を引き締めるには何か暗黙のルールを作ってしまえばよい。これが「空気」を醸成する。
 
逆に広く人を入れるのであれば暗黙知を廃止するか形式知化して開示する必要がある。
 
これは人が目の前でよく理解できないことに対して興味よりも恐怖を抱きやすいからではないかと思う。